ドイツ(6)

 ドイツでは日本の様に下克上は起こらなかった。
 ヴァレンシュタインも皇帝に反旗を翻すことなく、皇帝のおくった暗殺者の凶刃に倒れた。
 総体として、ヨーロッパでは素性のハッキリしない人物が王に上り詰めた例というのは極めて希である。咄嗟に思いつくのはルネッサンス時代の傭兵隊長スフォルツァや、フランス皇帝ナポレオン一世くらいであるが、どちらも古い家系と婚姻によって結ばれる事で正統性を獲得しようとした。それでも長く家系を維持することは適わなかったが。
 さて、ヴァレンシュタイン兵站の側面で大きな軍事改革を実現した。彼はこれまで略奪によって賄われていた軍隊の維持費を戦争税という形で合法化した。これによりヨーロッパに常備軍が生まれ、分権型の封建制から集権型の絶対君主制へと移行するのである。

ドイツ(5)

 ボヘミア王を巡る戦いはあっさりと終わった。新教側の足並みが揃わなかった所為である。
 これで終われば”30年戦争”には成らない。敵は外部からやってきた。
 まず、デンマーク。次いでスウェーデンがドイツの新教諸侯を支援すると言う名目で攻め込んでくる。
 対して旧教側の切り札はボヘミア出身の傭兵隊長ヴァレンシュタインである。
 彼はボヘミア叛乱に際して旧教側に味方し、粛正された新教諸侯の領地を買いあさって大名にのし上がっていた。
 もし戦争がこれで終わっていれば彼の名は歴史に残らなかっただろう。

ドイツ(4)

 ボヘミア王となったフリードリヒは皇帝軍にあっさりと負けた。理由はいくつか有るが、ボヘミアルター派カルヴァン派の彼に同調しなかった事が一つの要因である。
 と言う訳でルター派カルヴァン派の違いについて触れておく。
 かみ砕いて言うと、ローマの教会には異議を唱えるが、世俗の君主には逆らわないと言うのがルター派で、信仰の自由のために積極的に叛乱を奨励するのがカルヴァン派である。
 よって何処の国でもカルヴァン派は弾圧の対象となった。イギリスのカルヴァン派清教徒と呼ばれ、フランスではユグノーと言う。
 さて、ドイツではフリードリヒの領地の他にカルヴァン派の牙城がある。それはスイスである。スイスは宗教的には一枚岩ではなく、ハプスブルク家*1からの独立を目指した軍事同盟である。
 

*1:同家の元々の領地はスイスの山岳地帯であった。

ドイツ(3)

 30年戦争の発端はボヘミアであった。現在のチェコに当たるこの国は当時神聖ローマ帝国の一部であり、唯一の王号を持つ国家であった。
 ボヘミアはルターに先立ってフスによる宗教改革が起こっており、ルターの”抗議”にいち早く反応を見せた。ハプスブルク家はこのボヘミアの王として「イエズス会にはまった」ガチガチの旧教徒であったフェルデナントを送り込んだ。
 ボヘミア王フェルデナントはマチアス皇帝の甥にして後継指名を受けた訳だが、皇帝選出の会議出席中にボヘミア王位を失陥する。ボヘミアの王位を決める等族会議が彼の王位を剥奪し、カルヴァン派プファルツ選帝侯フリードリヒを新たな王に指名した。斯くして30年戦争の第一幕、ボヘミア=プファルツ戦争が始まる。