文明よりの脱落
唐代にはベトナムは中華文明圏の一部であった。だが、東夷=朝鮮人とは異なり、南蛮=ベトナム人は唐の衰退の後に自立への道を選び、華夷秩序を抜け出した。ベトナムはあのモンゴルの攻撃すら凌ぎきったのである。
両者の違いと言えば、朝鮮は半島の突端で逃げ場がない*1のに対して、ベトナムはまだ後背地を持っていたと言う点だろうか。だが恐らくそれだけではない。中華文明は武より文を重んじる為、それに染まり過ぎた朝鮮は文弱に流れ、染まりきらなかったベトナムは勝負の気質が残ったのだろう。この点は日本も同じである。
さてこれと対比されるべきはイギリスである。
イギリス史はシーザーの渡海より始まったとはかのチャーチルの言葉であるが、ブリテン島のローマ化(即ち文明化)はそれより100年ほど後になる。海を隔てていたこともあって、ローマ帝国の衰退期にはもっとも早くに放棄され、独自の道を歩むことになる。
イギリスが再びヨーロッパ史に戻ってくるのは1066年のウィリアム征服王の渡海、いわゆるノルマン征服以後である。この英仏混交状態は100年戦争まで続く。
イギリスは英仏海峡から二度、他にも北海を経由してバイキングの度重なる侵攻を受けており、同じ島国と言っても日本と同一には扱えない。極東の島国日本を唯一占領出来たのは、西の大陸国家ではなく、東の海の彼方から来た海洋国家であった。
*1:背後にはまだ日本があったが