徳川家康

 これまた日本人に人気のない人物である。
 頼朝には弟義経殺し(実際に殺したのは平泉政権だが)が、そして家康には秀頼殺しという汚点がある。
 先走りになるが、次の大久保にも盟友西郷殺しの罪科がある。 
 だがこの非情さこそ彼らが優れた政治家である事の証明でもある。
 さて、家康は頼朝以来の武家政権の完成者という業績がある。
 頼朝の鎌倉政権は発足時点では全国政権にはほど遠い、言ってみれば自治政府レベルであった。
 これが足利公武合体政権(天皇家の分裂により相対的に武家の力が増した)を経て、公武逆転の徳川絶対王政に至る。
 通常は国内の争乱が収まると膨張政策に転じるモノなのだが、一つ前の豊臣政権が海外進出に失敗したことを受けて日本史上二度目の”鎖国”体制へと移行した。
 これらの結末は試行錯誤の末であった。
 成るようになったとも言えるが、他に選択肢がなかった訳でもない。
 次はこの試行錯誤の過程を検証してみたい。