不比等から頼朝へ

 不比等の、と言うか藤原摂関家の政略というのは、天皇家を不可侵の存在に祭り上げることで権威を高め、自身の権力を補完するモノであった。
 両者が一体化した支那では権力の劣化に対して易姓革命という荒療治が必要であったが、これが分離していれば権力移動に際しての流血は少なくて済む。
 島国日本の特性なのか、外圧が無くなると武力を軽視する傾向があるらしい。
 だが摂関政権は軍備ばかりか警察機能まで放棄してしまった。
 地方行政官である国司もその役目は徴税が中心である。
 政府が頼りにならないとなれば治安は自分たちで守るしかない。そこから武士団が生まれてきた。
 法治と言うのはそれを守らせる武力の裏付けがなければ無意味である。武装集団が最後には権力を握るのは当然である。
 頼朝のうち立てた武家政権は試行錯誤の末に誕生した。