平和の代償

 昨日の続きです。
 戦場に出た農民達の稼ぎ口の一つが、人身売買であった。
 九州征伐の折り、秀吉はポルトガル人達が多くの日本人を買って国に連れ帰っている実情を見て、宣教師達を詰問した。
 彼らの言い分は、「日本人が売るからだ」と言う半ば開き直ったモノであった。
 秀吉は(それら事実を認識した上で)人身売買の禁止令と合わせてキリシタン禁教令を出すことになる。
 秀吉の失敗の後を受けた徳川幕府は、別の方法で国内の火種を一掃した。
 秀吉以前は戦場捕虜が奴隷として売買されたが、江戸初期には売り手だった濫妨人たちが売られる側に回った。
 西欧列強が東南アジアに地所を獲得するに際して、これら日本人傭兵の寄与する所が大きかった。
 日本は新教側(イギリス・オランダ)と旧教側(スペイン・ポルトガル)の繰り広げる植民地争奪戦における格好の兵站基地となった。
 確かに本国から兵隊を連れてくるよりは低コストで済む。特にオランダは並行して独立戦争を遂行中であったから、兵隊は回せなかっただろう。
 新教側は幕府に正規兵の派遣まで要請しているが、幕府の方針はすでに内向きへとシフトしていたためこれに応じることはなかった。