清盛と秀吉

 平治の乱に置ける清盛の判断について考えていたとき、清盛と秀吉の類似に気が付いた。両者は主君の突然の死によって立場を武人から政治家へと変じた。 
 平治の乱の勃発以前の清盛は藤原信西に仕える番犬に過ぎなかった。反乱軍によって信西が殺され、普通ならこれで清盛も失脚する筈だが、ここからが並の武将ではない。彼は後白河院を救出(奪回)し、大義名分を得て反乱軍を打ち破ってしまう。
 これは本能寺の変における秀吉と酷似している。ついでに言えば反乱軍を率いたのがどちらも”源氏”であったというのは偶然にしても面白い。

義経の誤解

 義経が持っていたそもそもの誤解は、「清盛が父義朝の仇」であると言うことではないか。
 平治の乱の時、既に物心付いていた頼朝はその辺りを理解していたはずである。兄頼朝の挙兵は以仁王の令旨に応じたモノであって、父の敵討ちとは考えていなかった。彼の目的が父の敵討ちであるならば、直接の下手人である長田忠致の帰順*1を許すはずがない。
 頼朝にとっての源平合戦は鎌倉での自治独立権を認めさせるための条件闘争に過ぎない。その為に平家が持ち去った三種の神器を奪い返すことは必須条件であった。
 だが、(誰に吹き込まれたのか)復讐心に駆られた義経は平家の追討を優先したために壇ノ浦で神器を海に沈めてしまう。客観的に見れば彼が追討を受けたのは至極当然であろう。

*1:平家が滅んだ後には殺されているが。

トカゲの尻尾2

 以前に書きましたが、さっさと尻尾を切り落としていれば頭まで失うことも無かったのに。
 日付を見たら、2月28日。要するに民主党は丸々一ヶ月を無駄に費やした訳ですねえ。